ふすふすと竹を抜く春の朝

庭のえびす様にお供えしている水を替えた後、竹を抜く。ふす、ふす、ふすと抜く。

竹を抜くとはどういうことか。今の時期、赤ちゃんのように小さな竹が土のあちこちからたくさん生えるから、それを抜くのだ。あまりに清々しい黄緑色の先端をつかみ、すっと上に引き上げる。完全に除去するのは不可能だ。地面に必ず、彼らのからだの一部が残る。途中から折れでもしたかのように先端だけを失ったからだが残ったり、外皮の部分だけ残ったり。

竹はとても生命力が強い。えびす様の前のスペースの、小石で囲った部分に私はこの植物を収めたいのだが、向こうはお構いなしに根を伸ばし、人間が定めたスペースから大きくはずれた場所から気ままに生えてくる。全国で手仕事が普通に行われていた時代、この植物の生える地方では、かごやざるを作る材料に事欠かなかっはずである。かくも強い植物が身近にあったのなら。先日、家人が竹のほとんどすべてを切ったために今は禿げ頭のような竹コーナーだが、すぐにもとの姿をとり戻すだろう。

この一軒家に住む前は集合住宅の七階に住んでいた。私の人生で、初めて自分が責任を持つ庭が、この家の敷地だ。引っ越してすぐは、植物は管理せねばならないことをわかっていなかった。予想外のところに竹が伸びていても、「せっかく根づいて育ってくれたんだし…」と、それに手を出すことへの躊躇があった。今は違う。放置しておけば庭はいずれ竹林になってしまう。生命力の強い植物は要注意だ。敷地の外、しかしすぐそばに自生しているナンキンハゼは種を飛ばし、庭の端に新たな枝が伸びていることがよくある。ハート形の可憐な葉に心奪われても、抜く以外に選択肢はない。植物と人。植物は自分の陣地を拡張しようとあるいは子孫を残そうとし、人は人で自分の陣地を守ろうとする。庭はそうした緊張の場でもある。

最近は庭仕事らしい庭仕事はしていないが、竹は毎朝抜いている。どうかすると、えびす様に手を合わせることも忘れて抜いている。抜くことに集中してしまうのは結局この植物に惹かれているからかもしれない。

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