資源ごみの日にペール内をのぞいたことから始まる想念のメモ

横長の大きなペール、3枚の仕切り板で区切って4種類のごみをためている。向かって左からビン・缶、食品トレー、燃えないごみ、ペットボトル。薄グレー地に黒字の袋、透明の袋、緑色の袋、さらに薄いグレー地にオレンジ色の字の袋、と袋ひとつとっても鮮やかなペールの中身よ。「人生」とか「人としての暮らし」とか言葉は高尚な響きだけれど、こんなペールの中身こそ人生であり、人としての暮らしの縮図であるよ。「二酸化炭素をはきだしてあの子が呼吸をしているよ」と『さよなら人類』でたまが歌っているが、二酸化炭素を出さずには暮らせない人類、ごみを出さずには暮らせない人類だよ。

今日は資源ごみの日で、ようやくビン・缶を捨てることができたのでほっとしている。ようやく、というのは、二週間前に「今日出すか、まだ待つか」で迷って「待つ」を選択したからだ。佐賀市指定のごみ袋にはもう少しビン・缶を詰められそうだ、容量ぎりぎりまで袋を使うのもエコさ、……という気持ちから。

そうした選択の末、待ってみて、それで袋の容量としては何の支障もなかったのだけれど、先述のとおりひとつのペールの中を仕切って4種類のごみをためているので、ペール内における「ビン・缶」スペースが広く「ビン・缶」の圧迫がすごかった。やっとその状態から解放されたわけである、と考えてふと気づく。いま「圧迫」という言葉を使ったが、この使いかたは誤っている。

デジタル大辞泉によると「圧迫」の意味は

1 強くおしつけること。「胸を―する」

2 武力や権力などで押さえつけること。威圧。「大国の軍拡は近隣諸国を―する」

3 押さえつけて規模を縮小させること。「物価高で家計が―される」

であり、ペール内で「ビン・缶」は他のごみを圧迫するようなことはしていないのである。よくありそうな誤用だが、単に言葉を誤用したというだけでなく、この手の思い違いをしばしば私はしているのではないかということに思い至った。例えば、空間なり時間なり、自分がテリトリーと感じるものにちょっと入られた際に「圧迫」を感じる、というようなことが。誰も、何も、私を圧迫などしていないのに。言葉というのは単なる言葉というだけでなく、ものごとの捉えかたにも影響するのだなと感じた朝だった。

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