一難去ってまた一難、てほどのことはないから落ち着けよ
洗濯物を畳んでいると、娘の水泳帽がないことに気づく。
それはスイミングスクールで購入した、級ごとのワッペンを入れるポケットのついた親切設計(進級すればワッペンを入れ替えるだけ、縫い付け不要)のものだった。
たったそれだけのことなのに、「一難去ってまた一難」ということばがふっと浮かぶ。
去ったばかりの一難とは、娘の検尿のことだ。
先々週の提出日の朝、私は朝一番の採尿にしくじった。構えていたコップの外を尿が流れていることに気づかず、コップの中身がカラであるのを見て初めて気づいたのだった。
たったそれだけのことなのにひどく憂鬱になった。
「明日の朝は採尿」と書いてトイレやふろ場に貼っていた努力は無駄になった。その日だめだった場合のために予備日が設けられていることもわかっていたけれど、その予備日には、うっかり採り忘れることがないよう気を張っている状態を再度経験しなければならないこともまた明白だった。要するに、私は採尿という義務から解放されなかった。
予備日だった昨日の朝は成功し、ほっと胸を撫でおろしたところだった。
たったそれだけのことである。
水泳帽もワッペンも、スイミングスクールに行って買いなおせばよい。大した金額でないだろうし、自転車を走らせればスイミングスクールまでの往復にそう時間はかからない。
とわかっていても、もやもやした気分のまま、庭に落ちていないか見に行く。
逆さづりで干している息子のズボンのポケットが微かに膨らんでいる気がして中を探ってみると、果たしてマスクが入っていたので、それを他のピンチで挟む。
テラス(というほどおしゃれではなく、コンクリートを固めた物干し空間)のコンクリートの上に、真新しいワッペンを入れた水泳帽は、落ちていた。
汚れてはいないし、素材のせいもあってその場所で充分乾いているようだ。そのまま、水着やタオルと共に娘のスイミングバッグに入れた。
再び、ほっと一息胸を撫でおろす。だが今回の胸の撫でおろし方は、昨日の採尿成功のときよりも軽い。たぶんいい意味で、軽い。
できれば効率的に過ごしたいと思っている。採尿に二回もチャレンジするとか、買ったものをなくして買いに行くとかは時間の無駄なので、省きたいと思っている。そういうことに心理的負担を感じたり、そういうことで時間をつぶしたりするのはすごくもったいないことだと思っている。私は在宅ワーカーだけど、手帳でしっかり時間管理をしているし、そこから外れることはできればしたくないと思っている。
融通がきかない考え方をしているというのは自分でわかっていても、なかなか変えられない。
それでも採尿に失敗したときから比べると水泳帽がないと気づいたときのがっかり感は小さいものだったし、水泳帽が見つかったときは採尿が成功したときほどの大げさな喜び方はしなかった。
無駄とか回り道とかの大切さに、少しずつ気づいているのかもしれない。人生の夢はいくつもあるけれど、無駄や回り道、効率の悪い生き方の良さにいつかすっかり気づいて、いい意味で肩の力の抜けた、ごくごくゆるい人間になっている、それもまた私の夢かもしれない。