大人は自分が正しいくらいに思っているけれど

高木正勝さんのエッセイ集『こといづ』(木楽舎)を今、読んでいる。

こんな一節があった。アイヌの唄い手・床絵美さんの家で話をしていると、絵美さんのお母さんが現れる。絵美さんのおばあさん(お母さんのお母さん)のところに行ってアイヌの昔の話を聞くのだという。おばあさんは昔の話を誰にでも話すわけではない。「この話はこの子に、この話はあの子に」という具合に、話していい話もあれば話してはいけない話もあるのだそうだ。「今日は私が受け取る番だから聞きにいくのよ」。この、なんとも興味深いセリフが紹介された後、次のように文章は続く。

僕の妻が「あの、お母さんがどのように唄うのか聴いてみたくなりました。少しだけ唄ってもらえませんか?」。すると、「今は駄目」とていねいに断られた。「ふふふ、もし誰かに歌ってほしかったら、あなたが先に歌うのよ。そしたらお母さんも断れなくなる」と笑いながら娘の絵美さん。

ここに続く文章がまた良いのだが、記事に関係ないのでここでは触れない。私は高木正勝さんを知って間もないけれど、音楽と映像だけでなく、エッセイも本当に素晴らしい。柔らかな感性ってこういうことを言うのだ。自分に固執せず、自然と、人と、日常とふわりと向き合う。赤ん坊と一緒にいるときは赤ん坊に、4歳児と一緒のときは4歳児になる。そうして、自分という枠から自由になる。

先ほど引用した一節を読んだとき、私は娘とのやりとりを思い出した。娘が4歳で、我が家がこの家に越す直前、前の家で引っ越し作業をしていた頃のことだ。

娘が筒形の箱に、やはり筒形に丸めた広告を幾本も差し込んだものを見せながら、言った。

「Aちゃん しんぶんやさん。いつでも しんぶん うってる」

少し早口で、彼女にしては滑舌よく、そして決然とした口調で言った。それが微笑ましくて、「じゃあ、新聞くださいな」と返したら、

「だめ。いま うってない」と即答である。

これは我が家における笑い話のひとつなのだが、高木さんの文章を読んだら、娘の言い分こそもっともだと思えてきた。私が先に何かを提供すれば、娘もまた「しんぶん」を提供してくれたのかもしれない。

こういうことが親子間で時々起こる。起こるたびに、子どもの「子どもらしさ」「幼さ」を微笑ましく思って、それでいいお母さんでいるつもりになるけれど、そのスタンスは果たして正しいのだろうか。

我が家にはトイレに2セットのスリッパが並んでいる。親子が一緒にトイレに入れるよう、いつも2セットを揃えている。そのうちの片方、ピンクのスリッパに「Aちゃん用」と書いて、と娘が私に頼んだことがある。そうしてもう片方の暗いチェックのスリッパには「大人用」と書いてほしいのだと言う。

「そしたらZくん(息子。娘にとっては三学年違いの兄)はどれを履くの?」

と尋ねたら、娘は泣いてしまった。あのときも彼女の幼さを笑っただけだったが、今になって思い返してみればどうもよけいな介入をしたようである。息子がピンクとチェック、どちらのスリッパを履くべきかなんて、その場で決める必要はなかったのだ。

彼女や彼が赤ん坊だった頃、育児に専念できる環境だったこともあって、私は赤ん坊になることに徹していた。少なくとも、赤ん坊である彼女や彼の感覚を最優先していた。

今、赤ん坊でない彼女や彼と向き合うのに、相手の感覚を優先しているとはいい難い。そこには事情もある。山積みのやるべきこととやりたいこと、学校やこども園の時間割とルール。子どもに伝えておきたいと思うマナー。でもそれらに子どもも私も支配されてしまっていては、元も子もない。

ふわりと生きる道があるだろうか。ふわりと子どもに寄り添う時間も、とり戻せるだろうか。うすぼんやりと考える。

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