追いつかない。きょうのめにゅうわ、すぱげってぃ。

昼ご飯にスパゲッティ作るよと言っただけでこういう手紙をくれるのが、5歳の娘だ。

平日も娘と一緒に過ごしている。ほぼ24時間一緒にいる、といえば、まるで赤ちゃんのいる生活みたい。

先週土曜日に右の足首をやけどして以来、娘は火曜に通園したきり、休んでいる。娘は元気だ。でも、何となく気分の冴えない日々を私は送っている。

靴を履くと痛むので外出時はサンダルを履くしかないこと(サンダルというより、ミュールだろうか。現在40歳の私が若い頃はミュールという名称がよく使われていたように思うが、最近あまり目にしない。つっかけをおしゃれ風にしたものといいう表現がしっくりくるか。足首を固定しないサンダルだ)。

そして何より、靴を履いていないときですら、1日に1,2回程度であるが、「痛い」と娘が言うこと。

それを理由に休ませている。

通院は土曜の夜の後に、月、水、金。金曜の通院が、今朝のことだ。日が経つほどに痛みがひくというものでもなく、月曜や火曜は痛みを訴えなかった娘が、水曜以降、痛いと言うことが増えた。ということを医師に伝えると、「それは痛いはずです」と返ってきた。あるべきものが欠損した状態なのだという。包帯とガーゼを剥がせば、患部は相変わらず赤い。表皮だけでなく真皮まで及んだやけどは、新しい組織ができれば赤みが引くらしい。今、一所懸命じゅくじゅくと液を出しながら再生を図っている娘の体である。

家に帰るとパソコンに向かう私の横で娘は絵を描いたり工作したりする。お手紙もくれる。昨日は夫に子どもたちの世話をかなり頼んで仕事したおかげで余裕があり、わりと穏やかに過ごせている。私がきりきり舞いしているときからは信じられない平和な時間だが、それでも娘が私に与えてくれる愛情に、私自身が追いつかないと感じる。

追いつかないとは、何が追いつかないのか。いちいちいうまでもなく、私は娘を愛している。じゃあ何が追いつかないのか。はっきり答えられないが(ライターとして減点)追いつかないという言葉がしっくりくる。無理やり言い換えるとしたら、「見合わない」だろうか。娘がかけてくれる愛情に、私が見合わない。遠くないんだけど、これはやっぱり正確さに欠ける。追いつかない。

親の情けは海より深いと昔の人が言ったのは、老後の世話をしてもらうために我が子に恩を着せようとでっち上げた言葉だと思う。

少なくとも、私は子供に対してそういうことを言いたくない。親になってからしばしば経験しているのは、ときに戸惑うほどに大きな、子どもが私に示す愛情だ。愛情。愛着。どう表現すればいいだろう(ライターとしてまた減点)。それがあまりに強くて、彼らにとって長い人生の支えにもなり、枷にもなるのだろうかと思う。そして非常に残念なことだが、こんなに近くてお互い愛し合っているのに、相手を一番理解できていると錯覚することが危険につながったりもする。

親の情けは海より深いと何の疑問もなくいえた時代(そういうのがあったとして)とあまりに大きく隔たってしまった現代日本である。

 

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