公共交通機関は世代間交流の場となりうるか

一時期は、コロナ感染が不安だとかいって避けていたけど、夏頃からバスの利用を再開している。

といっても、乗る機会は月に1回あるかないか。

通勤通学で使っていれば別だけど、そうでなければなかなか使わない。

徒歩圏内で済ませられる用事は徒歩で。それが無理なら自転車か車で。

バスという選択肢がなかなか浮かばないのは残念なことだ。

貴重な社会資源で、むしろ佐賀市内ではもっと尊重されるべきものなのに。

最近、「私たちは分断されている」ということばがふっと浮かんだことがある。

ジョージ・オーウェルの『1984年』に出てきそうなセリフですよね(違う、違う)。

そもそも私はジョージ・オーウェルをわりと最近初めて読んで、そして読んだのは『1984年』の一冊きりなので、「このセリフは彼の小説に出てきそうだ」などという資格もないわけですが。

そしてなぜ『1984年』を読む気になったかといえばご多分に漏れず、村上春樹の『1Q84』を読むにあたって知っておいた方がよいだろう、…という発想からなのです。ていうか、『1Q84』今頃やっと読んでいるのかって話ですが、それはおいといて。

「私たちは分断されている」

公共交通機関を使わず、たいていの場所はマイカーで移動するということは、マイカーという隔離空間にいるということですよね。

それって、世代なり趣味なりが共通している人間以外と空間を共有する機会が、極端に限られているということにならないだろうか。職場が異なり、かつ生活圏内が異なる(同じスーパーやコンビニを利用する機会がない)異世代の人を目にする機会って、いなかではごく限られているんですね。どうかすると都市部の人より外を歩く機会が少ないだろうし。

マイカー依存度の高い地域って、都市部と比べて世代間交流が起きにくくて、無知ゆえに「今どきの若いもんは…」とか偏見に満ちた言葉を吐く人が多いなんてこともありうるのかもしれない。

仮説に過ぎないけど、ちょっと煮詰めてみたいなと思う事柄です。

 

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