放送大学2018年講義「レジリエンスの諸相-人類史的視点からの挑戦-」を試験前に復習する・その1
放送大学の学生になって10年以上になる。2020年度後期は放送大学講義「レジリエンスの諸相(’18)-人類史的視点からの挑戦-」を受講した。これは2018年に開設された科目だけれど、コロナ禍で人の価値観も変わり、不寛容が社会に広がる中で、すごく示唆に富んだ内容だったと改めて感じている。
レジリエンスの定義って曖昧で多様性に富んでいるんだって。研究者によって違う。災害の後に「レジリエンスを発揮して」という風に使われることが多いけど、いったい何なのよという。
この講義では曖昧なレジリエンスの定義を明確にしようぜというのがねらいではない。
曖昧さは曖昧さのままで(講義においてこういういいかたは為されていない。でも、無理やり定義しない・ひとつの枠に無理に収めないというのも、一部の学問を除いてものすごく大切なことなのだと思う)超域的に(すごい言葉だ!)レジリエンスを語ろうというもの。
副題に「人類史的視点からの挑戦」とあるように時間的には人類の登場から未来まで、空間的にもそれこそ世界のあちらこちらの事例を示しながら、各回ごとに新しい切り口で一話(一回)完結でレジリエンスを示していくよ、そして講義が終わるときには各回の積み重ねが「ビッグストーリー」になっているはずだよ、というのがねらいだそうです。意味わかんない? 私もちゃんと理解できていない。でもなかなか感動の多い授業だったと感じている。それらを講義の第15回「レジリエンスとその未来」(まとめの回)をベースに振り返りたい。試験前の復習がてら。
- 序盤の人類の登場に関する講義で、猿人や原人、旧人たちに遭遇。昔の自分ならそれを知ることは単に自然科学史とか人類史を学ぶこと以上の意味は見いだせなかったと思う。でも、猿人や原人、旧人たちがどのように進化しどのように危機を乗り越え、どのように滅びていったのかを知ることは、単に教養を深めることだけに資するわけではない。進化の過程は“より優れている方向に一直線”ではなく、とても複雑だ。この複雑さを知るだけで、人生の見方も変わると思う。すなわち、“昨日の私より今日の私は成長している。後退することなく日々前進している”といったことだけに価値を見出す生き方だけが本当に正しいのか疑うような柔軟性を身に着けることにつながる。新人は高い共感能力をもって集団の絆を強め、そうして危機に対応していったこと、柔軟性と多様性が文化を育てていったことなどの指摘はとても新鮮だった。
- 私はネアンデルタール人が気になる。というか一時期すごく気になったことがあった。そのときの私には、ネアンデルタール人という別の人類がいたということがどうしても納得いかなかった。なぜ別なの? どう違うの? それはたぶん10年近く前で、放送大学の他の講義をきっかけに猛烈に気になるようになって、図書館で調べたりもしてみたけどやっぱりわからなかった。この講義を受けて、「ネズミにいろんな種があるように、人類にもいろんな種があるんだ」と初めて腑に落ちた。腑に落ちる前の私にとって人類というのは1種類であって、他の動物のように種があることなど想像もつかなかったのである。
- 私たちの直接の祖先である新人と、一部交雑しながらもネアンデルタール人は絶滅に追いやられた。この「一部交雑しながら」という点にとてつもない感動を感じる。ネアンデルタール人いたなあ、でも絶滅したなあ、それでも血はつながってるなあ、今の地球上のどこかにあるなあ。そういう安心感。他の旧人や原人、猿人にしてもそうで、現在の地球上のどこかで生きた証はつながっているんだと思う。ここに猿人の化石が残っていました、というより大きな意味で。地球上で生きていた以上、痕跡は消せないな、ずっと残るな、その点がありがたいし心強いな、世界に対する信頼感につながるな。だからといって今地球上で絶滅の危機に瀕している動物を「大丈夫、生きた痕跡だけは残るから」って絶滅させるに任せるわけにはいかないけれど。それにしても以前の私が「人類は1種類」という観念から抜け出せなかったように、人類だけは特別視してしまうのって何なんだろう。人類に属している以上、しかたないのかな。
- 人類は「虚構をも認知する能力」を得たことで発展したという。信仰というと古臭い、非科学的と決めつけてしまいがちだけれど、実はそれこそ人間の特徴。古臭いから排除すべきとかいう話にはならないし、信仰は科学と対立しない。科学信奉や主義もまた「虚構をも認知する能力」に支えられている。権力者は「お国のために命を捧げる」「正義のために戦う」という美学を人々の「虚構をも認知する能力」に働きかける。
- 内なる生態系という言葉。私という体に膨大な数の微生物がいて、それらを含めて私なのだ。これもまた私をすごく安心させる。多様性、多様性というけれど人の体というものはそれこそ多様性というものなのだな。自分の体というものの懐の深さとか広大さというものを感じる。
- 病は植民地主義や開発、グローバル化によってパンデミックが地球全体の問題に。2018年開設科目で既にこれは予言されていた。
- 心のレジリエンスという言葉。災害などの逆境を体験した人が、たとえばとても明るく積極的だった女性がひどく落ち込んで内向的になり、今も内向的ですと言うケース。傍から見れば「あの人は回復していない」と映るかもしれない。でも実は現在の彼女は、彼女が適応力や対応力を発揮した結果獲得した新しい姿なのかもしれない。こういう説明が印象に残った。「失われた心理機能が他の心理機能によって補われる」人生にしても人類の歴史にしても「正しい一方向」に向かってまっしぐらに進んでいくような錯覚がいまだに私にはあるけれど、そう単純なものではないのだ。
- 「ヒトと常住細菌叢の共生への撹乱による新たな問題」「常住細菌叢の生態系における多様性の消失は、地球環境における生態系の多様性消失と同様に、深刻な問題を引き起こしつつある」多様性が喪失されるとやはりろくなことにはならないらしい。
- 地球環境の悪化という緩やかなショックにきちんと向き合えるだろうか。それがとても難しい。科学だけで地球環境問題を解決できないとの指摘が印象的だった。学問を総動員し連携しなければ有効な解決策は探し当てられない。
- この講義の講師の皆さんは研究と結びついた実践を行っている。フィリピンの先住民族アエタが被った災害を契機に発揮されたレジリエンス、東ティモールでもレジリエントな農業サポート(有機コーナーの栽培)、先住民族サミットの開催…講師陣の活動事例から、連携すること、まずは知ること動くことの尊さを感じる。
- インターネットが拓いた世界社会において、「個と世界の間にある、さまざまなレベルの集団の重要性」「フェイス・トゥ・フェイス(顔の見える)交流の重要性」を見落としてはならない、と第15回の講義では指摘している。コロナで全世界が苦しむ今だからこそ、この指摘は響く。後者の重要性に気づいている人は多い。でも前者もとても大切で、社会が寛容さを失う中で、この当たり前のことに思いを寄せる大切さは増している。他人に同調を求める圧力が息苦しさを招いている。同調圧力をかけ、従わない人を排除することに躍起になるタイプの人は、この世界は多層構造であることを忘れているのかもしれない。緊急事態宣言下で不要不急の外出をすることに賛同するつもりはない。それでも不寛容で極端なことを言う人には疑問を感じる(ていうか政府に対して、不寛容というかなーんか思いやりがないねえ、みたいな印象を受けているんだけれど、別の記事で)。
うーん、いい講義だったなー。次回はもう少しまとまったわかりやすい内容を書くことを、自分自身に期待します。