「型」を習得するということ、「型」から離れるということ その1
娘の描く人物や動物はウィンクしているか不二家のペコちゃんのようにペロリと舌を出しているか、どちらかが多い。おそらくここ数か月のうちに彼女が覚えた、イラストのひとつの「型」なのだろうと思う。
茶道とか武道とかを習ったことがないのだが、そういうものには決まった「型」があるはずだ。文章にも「型」がある。文章の「型」はおそらくかなりの数あるのだが、「こうすれば読みやすい文章になる」という何らかの「型」を意識して書くのと書かないのとでは、文章の仕上がりが大きく違う。最初に結論をばんと出して、続く文章で結論の根拠を説明し、反対意見を紹介してそれに対して反論してみせ、最後にもう一度自分の主張を述べて締めるというのが一例だろう。これがもし、反対意見を先に紹介してそれと対立する自分の意見の根拠をじわじわ小出しにして結論に近づけていくという流れだったらどうだろう。よほどの熟練者の筆でない限り、何を言いたいかわからない文章になるのではないか。
文章の「型」はメディアごとに異なったりもする。例えば新聞記事は第一段落だけ読めば「何が起こったか」つかめるようになっていると聞く。紙面の都合で第二段落以降をばっさり削っても問題ないようにそういう「型」を決めているのらしい。取材と文章と真剣勝負する新聞記者の日常を思うと、執筆した文章が赤字修正されたのなんのと愚痴ってはいられない。
娘の絵に話を戻す。人物がウィンクしたり舌をぺろりと出していたりする絵。そういう「型」を娘はアニメからなのか塗り絵からなのか園のお友達からからなのか、学んだらしい。悪くいえばステレオタイプな絵である。思い返せば、子ども時代の集団生活においてはこの手の「お決まり」が多くあった。かつて息子が園児だった頃(娘とは違う園)、「絵を描けない」「お友達の絵をのぞき見しながらしか絵を描かない」と先生から忠告されたことがある。小学生の今、全集中で絵を描いている(オリジナルのマンガを描いている)姿を見ると、あの頃は周りのお友達が習得した「型」に戸惑って、無理に周りに合わせていた苦しい状態だったのではないかと思える。
こう書いていると、一概に良いとも悪いとも判断しかねる「型」だが、果たして大人は絵を描くとき、絵を描く機会がない人はものを見るとき、「型」に当てはめずに描くこと・見ることができているだろうか。