LGBT理解増進法案提出見送り抗議デモに思う、持続せざるを得ない怒り
LGBT理解増進法案が今国会での提出を見送られる。これに抗議するデモが行われているという。地理的条件もあって参加はできないが、抗議する側を応援したいと思う。正当な怒りだからだ。抗議する人々の、特に当事者の深くて強い怒りを想像する。
アンガーマネジメントという学問がある。怒りを上手にコントロール下におく方法を学ぶものだ。怒りをあらわにして人間関係を壊すことを回避し、怒りの感情と上手に向き合う術を知るという非常にありがたい学問である。
私は数年来、これを非常なスローペースで学んでいる…要するに気が向いたときだけ入門書を開いたり、何かの拍子に思い出したりしているだけで、その実践ぶりについては家人が間違いなく厳しい評価を下すに違いない。ともあれこの学問では、「怒りの激しさ」だけでなく「怒りの持続性」についても研究の対象としている。らしい。
私が3年近く前に長男と一緒に地元で受けたアンガーマネジメント1日体験講座みたいなものでは「怒りの持続性」が問題にされた。体験講座に先立って親子共にチェックシートのようなものを提出しており、その結果によると長男の怒りんぼぶりは大したことなく、私のほうは「怒りの激しさ」もすごければ、「怒りの持続性」もすごくて、要するにかなりハイレベルの怒りんぼなのだった。アンガーマネジメント協会員らしき人がチェックシートの結果を渡しながら「これは改善することはできますから…」と同情的に言ってくれたのを覚えている。
弁解させてもらえば、すべての項目について私はかなり厳し目に回答した。「これに『当てはまる』と答えたら確実に怒りんぼ判定されてしまうだろう」と容易に推察できる問いに対して、「どちらともいえない」と回答してよさそうな気がするところを「どちらかといえば当てはまる」、「どちらかといえば当てはまる」と答えようかと思いながら「当てはまる」にチェックを入れるという具合で。
「怒りの激しさ」は譲るとしても、「怒りの持続性」についてはチェックシートの結果ほどひどくはないと考えている。私が本当に「怒りの持続性」が極度に高い人間だったとしたら、今頃生きていない。生きていられないと思う。平凡の域を大きくは出ないにしても、それなりにたいへんな子ども時代を過ごしている。そのわりには大らかに生きているというのが、反論の根拠だ。
子ども時代のたいへんなこととは、具体的には学校でいじめられたことなどである。そのほかのたいへんだった事柄は関係者に累を及ぼすためここで明らかにしないが、子ども時代に怒りのネタとなる記憶が無数にあり、実は社会に出て以降も極上のネタがいくつか存在する。と、まあ、こんな具合に忘れればいいことをいまだ覚えているのが「怒りの持続性」が極度に高い証拠なのだろうか。とはいえそんな嫌なネタを四六時中思い起こすほど時間に余裕のある身分ではない(チェックを受けた3年前も今も)し、大部分の時間は忘れて過ごしている。しかも、である。思い起こしたときも張本人に対して「まあ許してやってもいいだろう」という気分になる瞬間すらあり、むしろ寛容な人間と自分では思っているのであって、事実私は、…あまり言い訳がましいからこの辺りでやめるか。
でも、いつも思うんだけど、「許せないことは許せない」でずっと生きていいのだ。自分の尊厳を踏みにじられて平気な人間のほうこそ問題がある。
一番悪いのが、社会が個人の尊厳を踏みにじるというケースだ。そういうことが起こるのは、社会のありかたに問題がある以外の何物でもない。問題がある社会に対して怒るのは当たり前のことだ。
40女の私の感覚では「ちょっと振り返ればそこにある」くらいの近しい時代に、性的少数者に対する圧倒的な無理解が社会にあった。そして今も、たぶん改善傾向にあるというだけで、無理解と差別は続いている。当事者の抑えてきた怒り、どうしても消せない怒りの深さと強さを思う。そして、社会を変えるために闘うときに拠り所になるのは、こういう一個人の感覚、一個人の感情だったりするのだろうと想像してみる。
感覚とか感情とか形のないものが、国会を飲んでしまえばいいと願う。少数派は多数派に同化させればいいと信じている議員たちに、個人の感覚や感情をなめてはいけないことを知らしめたいと念じる。多数派こそ正当性があるという薄っぺらい誤認が、個人の怒りであえなく潰される日を、心の底から待ち望む。