人権意識はどこにある LGBT法案協議と個人の尊厳

自民党の議員の多くは人権意識というものがないらしい。LGBT法案に関する報道を目にするとそう思う。

「差別禁止」を図る法案でなく「理解増進」を図る法案であるという時点で、時代錯誤である(10年前ならまだしも世間で理解そのものは進んでいる。十分というレベルではないにしろ、とりあえず進行中である)。にもかかわらず「差別禁止」法案にしないのは、「差別禁止まで踏み込んじゃうと、いずれ同性婚の容認まで求められるようになっちゃうからイヤ」という本音が背景にあるそうだ。

野党の抗議で「差別は許されない」と書き込むことにはなったものの、自民党内の反対派が納得しないらしい。

全体に、性的少数者に対する自民党議員の問題発言のレベルの低さには呆れかえる。「もう少し工夫すればよかったんだろうけど、言い方がまずかったよね? これじゃ差別発言と捉えられてもしかたないから、次からは気をつけなきゃね!」とフォローできる範疇を明らかに外れている。露骨な差別だ。

山谷えり子元拉致問題担当相の「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、ばかげたことがいろいろ起きている」などは、問題の本質をまったくわかっていないことが明らかだ。少し勉強すれば誰でもわかるレベルにさえこの人は到達できていない。「理解増進」してほしいのはこういう議員だが、特定の信念に凝り固まっている人の耳元でいくら叫んだって、右から左へとすうすう流されてしまうだけなんだろう。

彼らの特定の信念とは、「多数派に入れば君に人権を認めてあげるよ」というもの、と私には見える。個人を尊重するより先に組織(国)ありきに見えるのだ。組織にとって都合のいい側は多数派だ。そこに属さない人間やそこから外れた人間にはとことん冷たい。長年続いた未婚のひとり親への税金面での冷遇は「外れた人間」への差別の例だ。「戸籍上の夫婦で子どもを養育する」という枠組みが大前提であって、「枠組みから漏れている人間なんて知らないよ。国家が支援してやる必要なんてないよ。だって想定していないんだもん、国家は”当たり前”の人が好きなんです」という理屈である。求められるのはどこまでも「組織にとって都合のいい個人」であって、「いや、私はこういう在り方なのであって、こういう風に生きたいのですが」と主張したら「それは組織にとって都合がよくないので認められません」と言われる。

政治がそうやって進んできたから、日本には本当の意味での人権意識というのが根付かないのだと思う。外国人も障碍者も、多数派と大きく隔てられたまま。国に人権意識がないのなら企業に人権意識を求めたって無駄だ。

私は外国に出たことがないから知ったかぶりのような書きかたしかできないが、性的少数者を取り巻く日本の現状って、国際的に見れば明らかに恥ずかしい段階だろう。トランスジェンダーの児童が体の性に合わせた衣服で登校させられるなんて事態、日本の教育界は恥ずかしくないんだろうか。児童はまったく無用のストレスを抱えこませられている。そういう状態で成長して、「さあ、あなたは大人になりました。国のためにいきいきと能力を発揮してください!」と言われても、果たしてどうだろう。私はトランスジェンダーではたぶんないのだけれど、ストレスを抱えて育った子どもが積極的に行動を起こす大人になりにくいということは身をもって知っているつもりだ。性的少数者への冷遇を継続したい議員は、何の権利があって子どもらの人権をなぶるのか。

日本のどこかに人権意識があるとすれば、それは政府や与党にあるのではなく、もっと素朴な、個人レベルの絆にあるのだと思う。性的少数者に対する無理解は世代が上がるほど深刻なのかもしれないが、知る機会さえあればひとりひとりの意識は変わっていくものだと信じる。とはいえ、絆とか知る機会とかを阻害しているのは、政府の決める枠組みそのものなのだ。わからない議員連中には何度でも言いたい。わかってください。理解してください。

 

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