少しずつ、使える言葉が増えていく
子どもたちがよく手紙をくれる。最近は励ましの手紙が本当に多い。
仕事、創作、宣伝会議の「編集者・ライター養成講座」で出題される課題、家事といっぱいいっぱいの状態で過ごしている母をよく見ているなと思う。正直、ほろっとする。
8歳の息子が手紙を書いている横で、5歳の娘が「Zくん、ずるい~」と泣いたことがあった。
なぜずるいのかというと、「たくさん書けてずるい」のだそうだ。
ひらがなですらすら手紙を書けるようになって大得意の娘の、意外な一面を見た気がした。5月生まれで背が高いため同学年の子より運動ができ、自分の万能を信じていそうな娘だが、実は「まだできない」ことがたくさんあることを大いに自覚しているのである。
兄の手紙を「ずるい」という娘は、語彙の少なさ、表現の拙さを知っている。「文章でも絵でも幼いときにしかかけないものがあるんだよ」という耳障りのよいフレーズを吹き飛ばすような、娘の抱える切実な悲しみである。「そのうちたくさん書けるようになるんだよ」という慰めも5歳児にはあまり通じない。大人の時間感覚と5歳児の時間間隔は全く違う。大人にとって時間はあっという間に過ぎていくものであり、「そのうち」は「すぐそこ」だが、5歳児にとっては気の遠くなるような未来でしかない。何より、5歳の娘にとっては今がすべてなのである。
それでも、少しずつ言葉は増えていくし、表現は豊かになっていく。それを信じているから私もどうにか文章と向き合っていけている。
昔読んだピアニストのインタビュー記事が印象に残っている。若い彼女がさらに若く、まだ学生だった頃、世界的に有名なピアニストと一緒に弾く機会が急に降って来たという。「その頃は返せる言葉が少なくて。あいさつ程度でした。でも数年後に再び機会に恵まれたときは、返せる言葉が増えていたんです」ということを語っていた。私は音楽をまったく知らないので、その世界では有名人であるはずの彼女の名前も、彼女と共に弾いた世界的に評価されているピアニストの名前も覚えていない。彼女の言葉さえあやふやにしか記憶できていない。だが、ピアノを弾くという行為を言葉として表現していることが鮮やかな驚きとなって今も残っている。
ピアノであれ言葉であれ何かを表現しようとしている人間は、結局、「少しずつ増えていく」ことを信じてやっていくしかない。私のような「表現したい」「創作したい」とがむしゃらになっている人間に限らず、世界じゅうの人間が生涯をとおして自分にとっての真理に近い表現を探しながら生きていると思ったら、ちょっとストーリーを感じてしまう。
生き続けることが必ずしも良い方向、美しい方向、正しい方向に向かっているとは限らないことはわかる。道を踏み外すこともあるし、長く生きるうちに失ってしまうことは本当に多い。それでも「少しずつ増えていく」を思い出せば、ほんの少し心が軽くなるような気がする。