「その記事は有益か?」と問われて「有益じゃないどころか無駄ですが何か?」と答えたくなるときもある

フリーライターをしている。仕事中にふと気になるのが、特にネット記事においては、必ず“読者にとって役に立つ情報を提供できているかどうか”が問題になる点だ。動画だったら“役に立たなくてもおもしろければOK”だったりするけれど、文章であれば読者にとって有益か否かが問われるのは当然のことだと思う。誰しも何かしらの情報を求めてスマホやPCをいじっている。一方で、そんな状況にうっすら息苦しさを感じもする。

紙の世界ではまだ“役に立たない情報”が幅をきかせている気がする。新聞のコラム欄とか、新聞・雑誌で連載されているエッセイ、そういうのは著者独自の視点が活かされてはいるが、「だから何?」みたいな話題もけっこう多い。季節感があるのも特徴。ネット記事では季節感を排した記事の方が喜ばれるからその点は対照的だ。気候とか、旬の食べ物その他の風物詩とかが盛り込まれていて、しかも、読んだ一時間後にはきれいに記憶から消えていそうな内容。新聞・雑誌のエッセイにはそういうものが多いと感じている。同じエッセイでもネット上で好まれるのは例えば美容エッセイとか子育てエッセイ、医療従事者のエッセイとかのようにテーマが明確で、やっぱり何かしら有益な情報が盛り込まれているもの。

スマホの動きが遅いとイライラする。速くあってほしいというか速くて当然、という意識がそこにはある。待つ時間が無駄だという意識もある。でもこの感覚を、身の回りの情報にも適用してしまうと怖いな、と思う。自分とは関係ないし無駄だからいらない、こんなものは目に入らないで、という具合に

無駄を省いて過ごすことはとても大切だ。でも、ぎちぎちに詰めたスケジュールを守り、ぎりぎりの状態でタスクをこなすことはいいことばかりでもない。達成感を味わえたとしても、スケジュール管理とタスク終了にばかり意識をとられて生活していると息苦しくなってしまう。自分の去年1年間を振り返って、目標に邁進するばかりで心に余裕がなかったなと思うから、無駄とか「余白」を大事にしたいし、想定外のハプニングでスケジュールを狂わされたみたいなこともいっそ楽しんでいけたらという気持ちが今強くなっている。

人生に必要な無駄、自分に合った「余白」の設け方は人それぞれで、さっきは無駄の対極にあるものみたいないいかたをしたけれど「ネット記事を読む時間が私にとっての『余白』にあたる時間です」という人もいるだろう。テレビを見るのがそれという人もいるし、新聞や雑誌を読む時間がそれという人もいる。私の場合は散歩かカフェで過ごす時間が必要欠くべからざる「余白」かな。去年より忙しくなりそうな今年に、そういう無駄時間を確保したいというのは贅沢な願いなのだろうか。

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