コロナと災害に備えながら社会への信頼を語ろう

昨年末からやろう、やろうと思いながら実行しなかった事柄2つに、ついに着手した。ひとつは、コロナに感染して入院またはホテル療養することになった場合の備え。もうひとつは、災害の備え。同時に進めることにしたのは両者に共通点があるから。マスクやビニール袋など、衛生関連の準備は共通しているし、なんといっても根本にある精神みたいなものが共通している、と思う。

私は在宅ワーカー(フリーライター)だから、時間の融通はけっこうきく。ここ2週間ほど、平日であるか土日であるかを問わず、少しずつ2つの「備え」を進めてきた。

家にあるものをかき集めてリュックサックやバッグに詰め込んだり、ディスカウントストアで必要なものを買いこんだりしているうちに気づく。

ひとつが、今やっている「備え」は社会への信頼を前提にしたものだということ。もうひとつが、「備え」は不確実なものに過ぎないということ。気づいた末に私が出した結論は、社会を引き続き信頼し続けることと、不確実さを楽しむことだった。

社会を信頼することで人生は成り立っている

世界は信頼で成り立っている。世の中というのが信頼を前提に動いているし、私個人の人生も信頼をもとに進んでいる。社会という漠然としたものを無意識に信頼している。そして、信頼している対象が手を伸ばせない部分をカバーするのが、各家庭・個人における「備え」なのだ。

コロナ感染を疑って病院に行けば、正しい処置をしてくれるし入院なりホテル療養なり自宅療養なりの指示を出してくれるからそれに従えばいい。災害時には避難所に行けば援助してもらえるし、避難所に行くことが困難なら自宅で耐え忍んでいればいつかは助けが来る。そういった、自分の属する社会の仕組みに対する信頼があるから「備え」ができるわけだ。「備え」をしているとけっこう大変だなと感じるけど、もし社会の仕組みに信頼がおけなかったら、「備え」はもっともっと複雑で大変なものになるのだろう。

我が家においてはまだまだ基準を満たしていないけれど、食糧と水は家族1週間分を備蓄しておけという。なぜ1週間分か。災害が起きて、救援がくるまでに家で命をつなぐために必要な量だという。私は今までの人生で大きな災害にあったことがないから、「助けに来てもらえるまで1週間もかかるなんてことがあるの?!」と心のどこかで驚いている。でも、救援されるのが1週間後なんて、容易に起こりそうなことではないか。災害の規模が大きければ。災害が同時に複数の地域で起これば。救援に来てくれるはずの組織が被災していれば。この数年間に見聞きしてきた災害報道を思い返すと、「どんな大規模な災害が起こっても不思議はない」という思いを強くする。私たちが生きている地球というものを信頼したいけれど、「私の住んでいる地域で大災害は起こらないでしょ? 地球さん」みたいな信頼のしかたは間違っているのだと肝に銘じたい。そして、1週間で救援に来てもらえない可能性だってあるということも。

災害が起きて、地域の避難所に移動するのは「そこに行けば援助してもらえる」という信頼があるからだ。避難所に行っても水も食糧ももらえないどころか体を休める場所すらなく、暴動が起きていて危険な状態である、なんて状況は本当に勘弁してほしい。社会が信頼できることを前提に「備え」を進めているから、信頼ができなくなった状態を想像すると、なにかとても不思議な気分になる。

社会が信頼できなくなった状態のために備えるのなら、一人または家族でサバイバル、という状況に行き着く。そういう「備え」もしてはいいのだけれど、今のところは引き続き、社会を信頼してみようかなあ。それは能天気とかなんとかいうより、生き抜くうえでとても大切な感覚なのだと思う。

日ごろ意識していないだけで毎日が不確実の連続

もうひとつ気づいたのが、どれだけ「備え」を充実させても「これで絶対に安心」というレベルには到達できないこと。水と食料は家の中に分散させておく。玄関に非常時持ち出しリュックを置いておく。こういう準備が何の役にも立たないケースもまた想定しておかなければならない。例えば、外出先で被災した場合。さらには家族が一緒にいる場合と、ばらばらにいる場合、それぞれを想定すると、……災害の備えって、本当に切りがない。

ありとあらゆることを想定して備えておいても、実際の災害は自分の想定した「ありとあらゆること」を軽く超えているかもしれない。「備え」は大切だけれど、「備え」に固執しないことも大切なのだ。場合によっては「備え」なんか忘れてとにかく身一つで逃げなければならないこともある。

だから、「備え」をやっていると、不確実なことをやっているな、という感覚がある。そしてその不確実ぶりは、私にとって馴染みの薄いことだと感じる。というのも、ふだんは確実なこと、確実だと見込まれることにばかり力を入れているからだ。

例えば日常的なこども園や学校の準備。配布されたプリントを見ながら「確実にこれで大丈夫、相手の求めるものはすべて揃えた」と確信する。例えばスーパーでの買い物。生鮮食品は、これだけ買っておけば数日間は困らない、かつ、腐らせずにすべて使いきれるだろうと見込まれる分だけ購入する。このときも「これなら確実だ」という安心がそこにある。

でも実は、災害が起きれば子どもたちが登園または登校する「明日」は来ないかもしれないし、明日家族全員がコロナで入院すれば冷蔵庫の中の生鮮食品は退院後に廃棄されることになる。

「これで確実だ」と安心してやっているいろいろなことが、実は「明日も今日と同じように過ぎるだろう」という思い込みの延長でしかないのだ。だから「これで確実だ」と思いながらやっていることはすべて「これで不確実だ」に過ぎないというわけ。

じゃあいっそ、日ごろからもっと不確実をこそ重視してみようかな。「これで確実だ」と自分を納得させることに重点を置いて生活してきたけれど、「あれも不確実、これも不確実、だけどその不確実さが楽しい」みたいな感覚にシフトしてみようか。とりあえず、「確実さ」を求める生き方を変えてみる。こども園や学校のプリント、自分の作成した膨大な買い物メモとにらめっこするのはやめられなくても、その瞬間に「タスクをこなすのにどれだけ一所懸命になってみても、所詮は不確実性の掌の上だ」と肩の力を抜いてみる。

考えてみれば、勤めをやめてフリーランスになったときから、不確実さに満ちた毎日に転換したのだ。もうこのまま不確実さの波に乗って。社会、ひいては世界への信頼だけ携えて生きてみよう。

 

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