冬の若木と、娘が髪を切ること

ごまかしごまかし過ごしているうちに、買い物リストがどっさりたまっている。

毎日あれこれしているうちに、息子の髪が伸びすぎている。

日々の取りこぼしを、年単位で実感するのが年の瀬なんだと思う。

年の瀬を迎えているという実感すら湧かないままに時が過ぎ、大掃除も年賀状も手つかず。

子どもへのクリスマスプレゼントもまだ買っていない。

クリーンますの掃除もしていないし、家の前の河川敷も庭も草が増え、気づかぬうちに若木まで伸びていて。

若木。この言葉の響きの美しさよ。言葉自体の清々しさよ。

でも庭で勝手に増えられちゃ困るんだ、と日当たりの悪い北側にすっくり伸びていた若木を抜く。あっさり抜ける。

どこかから種が飛んできたのが地中に落ち着いて、いつの間にやら30センチほどの背丈になっていた。ああ怖い。庭のメンテナンスをさぼっていると、こういう風に勝手に植物が増えるから、ほんと怖い。放置すると庭がジャングルになってしまう(部分的には既にジャングルになっている)。

かつて鉄筋コンクリートの集合住宅に住んでいた頃と違い、庭がある家に暮らすというのは半ば自然の中にいるのだなと実感するのはこういう時だ。

南側の、亡き祖母が花壇としていた場所(夏季には名残りの花が咲き大葉が生い茂るが、他の季節はセメントで囲ってある中によくわからん低木とかが生えているだけの、意味のないスペース)の端っこにナンキンハゼが育っていて、現在は地表から40センチくらいの背丈。庭の端に電柱が建てられているんだけど、電柱の根元あたりから、「お邪魔しちゃってまーす」という感じで生えている。

これは見て見ぬふりをしてきた。

私はナンキンハゼが好きで、紅葉するハート形の葉っぱとか細くエレガントな枝ぶりとかの見た目だけでなく、「どんな場所でもいつの間にか生えている」したたかさが非常に好きだ。いつの間にか根付いてそこで成長しちゃったらしいナンキンハゼを街なかのあちこちに見かけるし、うちの前の河川敷にも成木がある。庭に種を飛ばしたのは河川敷のこいつか? という疑惑はおいといて、人生のある時期からナンキンハゼを見ては「こういう風に生きたい」という温かい勇気のようなものを感じるようになってきた。

ナンキンハゼとは、そもそも蝋の原料を得るために栽培されていたもののはずである。だが人間の思惑を超えて、勝手にあちこちに種を飛ばし勝手に根付いて勝手に成長している、本当に強い樹木だ。誰に植えられたわけでもなさそうなナンキンハゼを見かけると、「根付いて伸びて、後のことは知ったこっちゃない」という無言のメッセージを受け取っているように感じる。捨て鉢ではなく、強いのだ。肚がすわった強さだ。自分の運命は自分で責任を持つからどうとでもなれという強さだ(鶏頭の花とかマーガレットとか、花壇で育てられているような花が溝の蓋に溜まったごくわずかな量の土から生えているのを見た時も同様の感慨がある)。

そんな感慨から、庭の端のナンキンハゼを放置していた。いや、放置していたわけではない。数か月前に気づいた時は、既に15センチくらいの背丈になっており、簡単には引っこ抜けない状態だった、と思う。あの時、一人の庭で、自分自身に向けたパフォーマンス的にであれ、引っこ抜く努力をした、と思う。でも抜けなかったのだ。そして今日になって改めて引っ張ってみたら、当然抜けなかった。強い植物というのは、根を張るのがうまい植物だ。この点、庭に繁茂して悩まされるスギナやドクダミと同じ(庭を得て知ったのだが、地中に縦横無尽に張られた彼らの根っこは本当に太くて頑丈だ。成木の枝と見まごうほどにたくましい)。

スコップを使えば、根っこごと掘り出せるかもしれない可能性に気づきながら実行しなかったのは、優柔不断ゆえ。好きとか何とかいう話でなく、本当は抜くべきなのだ。庭の中に無計画に木を増やすべきではない。とわかっていつつ、結局放置する。

どっちみち、この家で過ごすのはせいぜい10年ぐらいで、私たち家族が出て行けば、新しい居住者のためにこのナンキンハゼも他の樹木も根こそぎ撤去されることになるだろう。だったら今抜くこともないのではないか。

ナンキンハゼという闖入者が、師走にこれだけの葛藤をもたらした。

放置した問題は振り返らず、他のやるべきことを粛々と片付けていかねばならない。

子どもは土曜日に美容室に連れて行く。

娘が髪を肩の長さに切ると微笑みながら言うけれど、日ごろ私が彼女の朝の準備が遅いことを責めて、髪を結ぶときいつも殺気立っているせいかと思うと、じんわり悲しい。

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