一瞬間、相手が自分に対して抱く感情とか印象を気にするか、気にしないか
相手が自分に対してどういう感情を抱くかとか、自分が相手にどんな印象を与えるかとかを気にする性質だ。できればそんなものに無頓着でいたいと常日頃思っている、どころか、無頓着になることがここ数年の切なる願いであるのだが、長年身についた慣習というのは簡単に抜けないものだ。心の癖である。相手がほんの一瞬でも自分に対してマイナスの感情やネガティブな印象を持ったと気づいたとき、あるいは「持ったのではないか」と不安になったとき、私はたちまち落ち込む。
この性質は母から受け継いだものだと思っているが、実際のところわからない。でも、母も他人の目を気にするタイプではあると思う。昔、こんなことがあった。
もう十年以上前に閉店してしまったが、ちょっと高級感がある、けれど普段着で行けるフレンチレストランがあった。小ぢんまりとした店で駐車場も広くなく、車を先客の後ろに整列させて駐車せねばならなかった。当然、先客が食事を済ませて退出する段になると、自分の車は動かす必要がある。食事中の、または食事を待っている客の楽しい時間を妨げないようにとの配慮からだろう、その店ではスタッフが客から車の鍵を借り、代わりに運転して車を移動させ、先客がスムーズに車を出せるよう協力していた。
その店にはたいてい母の運転する車で行った。母は駐車場に着いてエンジンを切ると、ぐいと運転席を後方に移動させた。母の言い分は、「脚が短いのがバレないように」である。私は呆れていた。女としては大柄な私と違い、母の身長は150センチに届かない。身長が低ければ相対的に脚が短く、運転席は自然ハンドルに近くなる。そんなことは誰でもわかっている。母から鍵を受け取った時点で、スタッフは母の小柄であることを認め、運転席に座る瞬間、どれだけハンドル近くに寄せられているのであっても、「あのお客は小さかったから」と自然と納得するものではないのだろうか。
身長の低い人の中には、私の言い分に不満を感じる人もあるかもしれない。でも、脚が長い・短いというのはその人間の体のバランスから判断することである。スタイルの良い一部の人を除いて、身長が低い人は身長の高い人より脚が短いのが普通だ。小柄な母の運転席がハンドル近くにあるのは恥でもなんでもないはずだ。と私は思う。
だが、待てよ。代行運転してくれるスタッフは、運転席に座った途端、やはり「脚の短い人だな」と思うのだろうか。スタッフは目の回るほどの忙しさの中で鍵を受け取る。その瞬間、客の顔を覚えているものだろうか。運転が終われば鍵を返さねばならないのだから、返すときに備えて客の顔つきや体格など、覚えようとはするはずだ。だがなにしろ忙しい。鍵を受け取ったらすぐに駐車場に出て、他人の車を慎重に運転しなければならないのだ。気持ちも張りつめている。車に乗り込む瞬間、スタッフは鍵を預かった客の身体的特徴など、忘れてしまっているのではなかろうか。それは車に乗り込むタイミングには不要な情報であるから。レストランの中に戻ってから思い出せば済む情報なのだから。
ということは、である。母から鍵を受け取ったスタッフは、車に乗り込む瞬間には母が自分より身長が低いことを忘れてしまっている。身長が低いことの帰結として相対的に脚が短く、運転席がハンドル近くにあって当然であることを認識していない。つまり、もし母が、車を降りる前に運転席を後方に下げるというひと手間をかけていなかったら、「脚の短い人だな」とスタッフに驚かれることになるのである。驚いた一瞬あとには、スタッフは母の体格を思い出し、「そういえばあのお客、小さかったな」と納得するのかもしれない。しかし、母としてはスタッフが驚くその一瞬が嫌なのだ。スタッフが自分に対して下す、一瞬の評価が母には大きな意味を持つのだ。他人が自分をどう思おうが気にしない人間と、ほんの一瞬の感情や印象さえ気になって引きずってしまう人間がいて、母は明らかに後者だ。
くだくだしく書いたが、身長が低い人の言い分はこうだろう。「あなたのお母さんが気にしていることは脚が短いことでなくて、身長が低いことなの。身長が低いこと自体がコンプレックスなの。それをあなたはわかっていない」。私自身、書いていて初めて腑に落ちた感がある。私の場合、大柄が長年のコンプレックスだったので、小柄を気に病む女性にはつい冷淡になってしまう傾向があるのだから容赦してほしい。大丈夫、身長が低かろうが高かろうが、小柄だろうが大柄だろうが、他人はたいして気にしていない。